ブログ照る日曇る日に投稿しました。
2007年7月アーカイブ
芥川龍之介全集 8
芥川龍之介の話題は続きます。「河童忌」の記事で触れましたが、芥川作品の翻訳のうち、民族差別的な要素を指摘されがちな評価であった「支那游記」。その中国語訳が出るくらいだから、再評価の機運があるのでしょうね。(関口安義氏は、その急先鋒の一人です。)「支那游記」は、上海游記、江南游記、長江游記、北京日記抄、雑信一束(いずれも、青空文庫作業中)と続く一連の中国紀行文です。各々の巻で差別的な表現のニュアンスの違いもあり、詳細には立ち入りませんが、今読み返すと、日本文化のバックボーンとしての中国文明に陶酔しようとする願望と植民地化した今の中国の体験、さらに言うなら、その中国に「野望」を隠さない日本の現実が、二重にも三重にもだぶって描かれているとも取れます。漱石とは時代が違うし、谷崎潤一郎や後で引用する佐藤春夫とも、気質が違う、芥川独自のスタンスがあると言えるでしょう。
その中でも、もっとも彼らしいと思うのは「江南游記」にある、日本人ならちょっとは憧れる杭州郊外の西湖を「貶す」文章でしょう。有名な南朝の時代の名妓蘇小小(彼女は、杜牧の詩にも固有名詞として出てきます。)の墓は「詩的でも何でもない
芥川龍之介全集 7
しばらくは、昨日の「河童忌」を受け、芥川龍之介に因む話題を続けます。以前、大阪に関係する文学者を扱った大阪民主新報の連載を何回か紹介しました。芥川で言えば、1918年(大正 7年)に大阪毎日新聞社の社友になってから、大阪と縁ができるようになり、そのせいか大阪が舞台の作品が目立つようになります。「枯野抄」(青空文庫)もそうですが、連載には、他に「仙人」や「秋」が挙げられていました。「僻見」(青空文庫作業中)中の一篇、「木村葭堂」もその一つです。(「僻見」で取り上げられている人物は、木村葭堂の他に、斎藤茂吉、岩見重太郎、大久保湖州というなんともユニークな人選です。茂吉以外は、ほぼ初対面の人物です。強いて言えば、加藤周一さんの「三題噺」に趣向が似てなくはないと思いました。)京都の美術館の一室で、芥川は、木村葭堂の画に魅せられるところから話は始まります。体調の故か、その日は富岡鉄斎や浦上玉堂には、見向きもせずに、「目の前へ奇蹟よりも卒然と現れた」「小さい
以下、木村葭堂の紹介は、主に芥川その人をして語ってもらいます。実にウィットに富み、「人懐っこい」文章ですので…。なお、部分的には、この一文に想を得て、主としては、「頼山陽とその時代」「蠣崎波響の生涯」に連なる江戸文人の世界として、中村真一郎さんは「木村蒹葭堂のサロン」を絶筆として遺しました。木村葭堂の画や肖像も含めて、その詳細な書評が、「松岡正剛の千夜千冊」にあります。後日、松岡さんとは違った切り口で紹介する機会があるかも知れません。また、Wikipediaに掲載する「山水図」が芥川が感動した画でしょう。同じく、続きに掲げておきます。
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杜牧詩選
増補 春夫詩鈔 ゲット価:100円
改めて杜牧の一番の長編詩「杜秋娘詩」を読みました。以前あまり感じませんでしたが、少なくとも前半は彼の女性に対するそれなりの優しさが伝わってきます。「十年一たび覚む 揚州の夢、
杜秋娘詩(一部)
京江 水は清く滑らかに
女を生めば 白きこと脂の如し
其の間 杜秋なる者
朱粉の施を労せず
老濞 山に即きて鋳
後庭 千の双眉あり
秋は玉斝を持って酔い
与に唄う 金縷の衣
濞 既に白首にして叛し
秋も亦た 紅涙多し
…
四朝三十載
夢に似て復た非なるかと疑う
潼関 旧吏を識るも
吏髪 已に糸の如し
却び喚ぶ 呉江の渡し
舟人 那ぞ知るを得ん
帰り来たれば 四隣改まり
茂苑は 草菲菲たり
清血 灑げども尽きず
天を仰ぐも 誰に問うを知らんや
寒衣 一疋の素
夜 隣人の機を借る
…
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江馬細香詩集『湘夢遺稿』 (上)
江馬細香詩集『湘夢遺稿』 (下) 計ゲット価:2600円前回、頼山陽が江馬細香に寄せた送別の詩が「詩の
眼耳雙忘身亦失 眼耳双つながら忘れ 身も亦失うの解説に、吉川幸次郎が「漱石詩注」で、
空中獨唱白頭吟 空中独り唱う白頭の吟
十四字、二旬の後の逝去の予言となった。いわゆる詩のと使っていたのを拝借したのである。(「無題」全編は、禿羊 漢詩のページなどにあり。)細香も、まさに同じ言葉を考えていたようで、「奉挽山陽先生(山陽先生を挽し奉る)」第二首目で、讖 を成すものである。
相約歡期不隔年と、「讖」(予言)としている。この詩を含め、山陽への挽歌を七律で三首作っているが、いずれも、死者を悼む真情に溢れている。が同時に、自分の感情をきちんと対象化し、詩として完成することにより、どこか、ふっきれたようにも受け取るのは穿ち過ぎだろうか?相約 す歓期 年を隔てずと
暫離何事忽凄然 暫く離るれば 何事ぞ忽 ち凄然
寄詩曽恠逢難字 詩を寄 せらるるに 曽て怪しむ 逢難の字
先生送別末句云 先生 送別の末句に云う前讖今知永訣篇
此去濃州非遠道 此より濃州に去 くは遠き道にあらざるも
老來更覺數逢難 老来 更に覚ゆ しばしば逢うことの難 きを
前讖 今知る永訣 の篇と
素壁燒香拜遺墨素壁 香を焼きて 遺墨を拝む
生蒭置酒酹重泉生蒭 酒を置きて重泉 に酹 ぐ
嗚呼海内文宗缺嗚呼 海内 には文宗 を欠く
不獨吾儕血涙漣 吾が儕 血涙の漣 るるの独りならず
【追加】
ブログ照る日に、七夕前夜の細香の詩を載せた。
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先日、ブログ照る日曇る日に、江馬細香の「爺は歳八十、眼に霧なし…」の一句を含む漢詩を紹介したが、細香という女流詩人の名をはじめて知ったのが、南條範夫:細香日記であった。その細香発掘のきっかけになったのが、門玲子氏の献身的な研究と一連の著書であろう。偶然古書店で手に入れたおかげで、さらに深く細香ワールドの魅力を知ることができた。
師でありつつも、ついに夫となりえなかった頼山陽の詩の添削を受けながら、生涯独身という対価を代償にして、詩人として、画家として、美濃大垣の地で、75年の人生を送った細香。時代は、幕末にむかう頃で、周囲には、その歴史の奔流にのまれてしまった知人、友人がいないわけではない。細香自身は、決して派手な人生であったわけではなく、清逸なる文人としての一生だったが、それでも、さまざまな別離を経験する。とりわけ、頼山陽とは「二十年中七度別」れたが、とうとう八回目の出会いはなかった。細香 44才の天保元年(1830年)閏三月、京から帰郷する細香を近江の地まで見送った山陽は、次の詩を彼女への
岩波書店、1958年 ゲット価:100円
河上肇は、獄中で、白楽天や蘇東坡など中国の詩人に親しんだらしく、とりわけ陸放翁に心酔し、後に詩の注釈書——放翁鑑賞(その六、その七)を書いたことはご存知のとおりです。また、王維(王右丞)の詩にも心引かれ、妻宛の書簡(1934年11月20日付け)に
最近に差し入れてもらった王右丞集は非常に結構です。「悠然たる遠山の暮、独り白雲に向うて帰る」と云つたような佳句に出会つて、飽くことを知らず口吟しながら、寝に就くと、やがて詩を夢に見ます。不愉快な夢を見るのと違つて実に気持が善いです。
とあります。詩の全体を示すと、
輞川 に歸りての作
谷口疎鐘 動き
漁樵 稍 く稀 ならんと欲す
悠然 たり 遠山の暮
獨り白雲に向って歸る
菱 の實は弱くして定 まり難く
楊花 は輕くして飛び易 し
東皐 春草の色
惆悵 して柴扉 を掩 う
ですが、王維らしく、対句になるべき所に「佳句」が決まっている律詩です。人の世の煩いに例えた、菱の実や楊花という足元に見る春の景色も、人事を超越したとも言うべき、遠い山に懸かる白雲という大きな舞台にあればこそ、何か物悲しく惆悵とした感情を抱く、獄中での河上肇はそんな気分をこの詩から受け止めたのでしょうか。この他の詩にも、王維の詩には、「決め所」があるように思います。
落花寂寂として山に啼く鳥
揚柳青青として水を渡る人
「寒食汜上の作」
漠獏 たる水田白鷺 飛 び
陰陰 たる夏木 黄鸝 囀 ずる
「積雨輞川荘の作」
行きて水の窮まる処に到り
坐して雲の起る時を看る
「終南の別業」
後の二例は、同時代の詩人から「剽窃」したとの非難があったそうですが、そんな評判を吹き消すくらい、不思議と律詩全体にうまくはめ込まれています。そんな「佳句」に出会って、河上肇は、獄中でのつかの間の安らぎにせよ、またよい夢をみたことでしょう。
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