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Bookの最近のブログ記事

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漱石のいくつかの長編小説のうち、なぜか「行人」が気に入っています。話の発端が、当方にもゆかりのある土地ということも一つの要因でしょう。しかし内容的には「こころ」のあの先生の告白より、「行人」の他人―弟や友人―による主人公の描写の方を好むものです。そんな「行人」に、友人 H と主人公須永一郎が、伊豆方面に旅行した時の一節に、H が一郎に、「灯影とうえい無睡むすいを照し、心清しんせい妙香みょうこうを聞く」という古人の一句を語る場面があります。以前読んだ時は、何か禅に関係した言葉かなとやり過ごしていましたが、その出典が分かりました。鈴木虎雄「杜詩(第二冊)」に「大雲寺贊公房」(その三)の冒頭と一節でした。それも「唐詩選」に載るような有名な詩ではなく、安史の乱以前、杜甫の長安時代の比較的マイナーな五言俳律でした。(岩波文庫「行人」の注では、五言律詩とありますが、俳律とすべきでしょう。)以下(その三)全句を引いておきます。


燈影とうえい照してねむり無く
きよくして妙香みょうこうを聞く

夜深くして殿突でんとつごつたり
風動して金鋃きんろうとうたり
天は黑くして春院しゅんいん閉じ
地は清くして暗芳あんぽう
玉繩ぎょくじょうはるか斷絕だんぜつ
鐵鳳てつほうしんとして翱翔こうしょう
ぼんはなたれて時に寺を
かねのこりてなおしょういんたり
明朝みょうちょう沃野よくやらん
塵沙じんさなるを見るに苦しむ
鈴木虎雄訓読

漱石の漢詩への趣味では、「草枕」にある、陶淵明や王維のような東洋的自然を好んだように思いがちですが、杜甫とはちょっと意外でした。もっとも「行人」執筆中の漱石は、病床で杜甫の詩を読んだと仄聞したことがあります。しかも仏教的な心情を盛り込んだ詩だけに、漱石の記憶に強く残ったのかもしれません。


晩年の一連の「無題」七律は、杜甫の影響だったのは確かのようです。芭蕉などとはまた違った、漱石の杜甫受容の形なのかもかもしれませんね。


ルートヴィヒ2世肖像
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 ずいぶん昔、ルキーノ・ヴィスコンティの「ルートヴィヒ/神々の黄昏」という映画を観ました。ヴィスコンティならではの世紀末的、耽美的なタッチだと記憶していますが、映画に出てくる、ワーグナーの音楽が生理的にあわないらしく、途中で筋も分からなくなってしまいました。森鴎外の「うたかたの記」に出てきたルートヴィヒ 2世と結びついたのは、ずいぶん後でのことです。

 森鴎外は、ドイツ留学の 3年目でちょうど真ん中にあたる、1886(明治十九)年6月13日にルートヴィヒ 2世のシュタルンベル湖での溺死事件に遭遇し、帰国後に発表した「うたかたの記」にその事件を取り入れます。主人公が鴎外の分身そのものから離れているだけに、同じ「ドイツ三部作」のうち、「舞姫」に比べてやや乾いた叙情ですが、それでも物悲しく浪漫的な趣きがあり、好きな作品です。鴎外は、事件のあった湖畔で、9月2日に四首の七言絶句を作っています。今回はとりあえず、二首紹介します。


(その一)
望斷ぼうだんす 鵠山こくさん城外じょうがいの雲
詞人 何事ぞ 涙 紛粉ふんぷんたるは
艙窓そうそう 多少の綺羅きらかく
おもはず 波間かかんに故君を葬むるを


(その二)
當年とうねん向背こうはい 群臣をおどろかし
末路まつろ凄愴せいそう 鬼神を泣かしむ
功業 千秋 しばらく問ふをめよ
多情 ひとへにれ 詩を愛するの人なればなり
          路易ルートヴィヒ二世

 このスキャンダルは、当時のバイエルン王国を巡る複雑な背景があったらしいのですが、そんな政治の世界に、芸術家気質の故、生き残る事ができなかったルートヴィヒ王への深い同情を感じられる詩です。


画像は、ルートヴィヒ 2世肖像(Wikipedia)より

詩仙堂と謝霊運

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先日、京都の詩仙堂に立ち寄る機会がありました。花見のシーズンと五月連休のはざまの平日だったので人も少なく、自慢の庭園をゆっくりと見入り、悠久のひとときを過ごしました。(下の写真は、その庭園)詩仙堂とその開設者、石川丈山の事は以前にも別のブログに何回か書きました(加藤周一「三題噺」中薗英助「艶隠者--小説 石川丈山」)が、改めて丈山の詩仙堂に注ぎ込んだ「こだわり」を感じました。その一つの現われは、中国の唐宋を中心とした三十六人の詩人の額が飾られている「詩仙の間」です。(名前の由来の「詩仙の間」は、撮影禁止になっており、その画額をブログなどで紹介されることは少ないですが、丈山自筆の隷書の詩句と狩野探幽筆の肖像画など、なかなかのものです。)その三十六詩仙には、李賀も選ばれていますが、唐宋以前の詩人では、謝霊運があるのが目につきました。ちょうど季節も春、詩仙堂の庭園では、「池の塘に春の草生じ」ています。画額にも、謝霊運の有名な一句を含む詩の後半部分(下記の太字の部分)も端正な隷書で書かれていました。


詩仙堂庭園
池のほとりの樓に登る 謝霊運

(身を守るため)ひそめるみずちは幽なる姿をいろめか
飛ぶおおとりは遠き音を響かす
(私は)そらとどまりて雲の浮かべる(高きに)
川に棲みて淵に沈める(深さ)を
德をみがかんとするも智の拙なるため(進まず)
耕に退かんとするに力はえず
祿にしたがいて窮海いなかのうみかえ
し空林に對す
ねや枕にて節候じせつくら
かかげ開きしばらうかがい臨み
耳を傾けて波瀾を
目を舉げて嶇嶔たかきやまを眺むるのみ
初景はつはるなごりの風をあらた
新陽はこぞふゆを改む
池のつつみに春の草生じ
園の柳に鳴くとりも變わりぬ
(草つむ人の)祁祁おおきにひんの歌の(人を慕う)をいたむ(を知り)
萋萋せいせいたる楚吟に感ず
索居ひとりいは永く久しくなりやす
群を離れて心を處しがた
操を持するはに獨りいにしえのみならんや
うれい無くしるしは今(ここに)在りと

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 李賀の(初期と思われる)詩に「春晝」があり、泉鏡花の「春昼」「春昼後刻」もここから題を取ったのでしょう。全文を紹介しておきます。


朱城しゅじょう 春を報じて更漏こうろう 轉じ
光風 蘭をうながして 小殿を吹く
草細くしてくしけずるに堪え
柳長くしてれんの如し
衣を卷く 秦帝
粉を掃う 趙燕ちょうえん
日は畫幕がまくを含み
蜂は羅薦らせんに上る
平陽の花塢かう
河陽の花縣かけん
越婦えつふ はたささ
吳蠶ごさん まゆ
菱汀りょうてい 帶を
荷塘かとう 扇
江南 情有り
塞北さいほく うらみ無し

 原田憲雄氏は、最後の句、「塞北 恨み無し」は、楽観、悲観の両説を挙げながら解説されています。鏡花は「春昼」執筆当時は、ちょうどスランプの時期で、笹川臨風から拝借した李賀の詩集を読み耽ったと言われています。小説の内容からは、この詩の持つ、のどかな春の昼に潜むどこか物憂くペシミスティックな趣きからインスピレーションを得た事を感じさせますね。

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 「中国名文選」の悼尾を飾るのが、北宋末の女流詞人・李清照の「金石録後序」です。「夫婦が一つの目的のために、互いに助け合いつつ過ごした在りし日のことが、淡々と、しかし深い感慨をこめて、細やかに記せられている」(興膳宏さん)その文章に心打たれる思いがします。作者やこの文の内容は、杉篁庵内の「金石録後序」口語訳、原文などに詳しくあり、名文選で略された部分も、また切々たるものがあります。以下の引用はそのごく一部です。

今日たちまち此の書をみするに,故人にまみゆるが如し。...何ぞ之をることかたくして、之をうしなうのはやすきなり。

 李清照は、本来は宋詞の名手として知られています。決して幸福ではなかったその晩年の作と言われる「永遇樂」にある
落日 金をとか
暮雲ぼうん へきを合し
人は何處いずくにか在らん
柳を染むる煙は濃く
梅を吹く笛は怨み
春意しゅんい知んぬ 幾許いくばく
(以下略)

 「人は何處にか在らん」も亡夫趙明誠の面影だったのでしょう。(訓読文は、鑑賞・中国の古典(22)「 宋代詩詞」を参考にしました。)
 彼女の詞も杉篁庵内のブログ「宋詞鑑賞・李清照・朱淑真」に解説がついて掲載されています。

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 昨日の赤旗文化欄「月曜インタビュー」に岩波新書「中国名文選」の著者・興膳宏さんの記事が載っていました。 当方も最近読みましたが、インタビューでも紹介されているように、「顕著な社会性を持っている中国文学の特徴を、常にアンダンテ(ゆるやかに)の話し振りで語られている」印象でした。西鶴や芭蕉に大いに影響を与えた李白「春夜 桃李の園に宴するの序」や蘇軾「赤壁の賦」、陶淵明「桃花源の記」など超有名ところの解説ももちろんそうですが、むしろ少しマイナーの劉勰「文心雕龍」の清冽さや李清照「金石録後序」の深い悲しみを説く部分に心打たれました。その「文心雕龍」から引いてみます。

 春秋はこもごも序し、陰陽はいたぶ。物色の動けば、心も亦たゆらぐ。けだし陽氣きざして玄駒げんく步み、陰律いんりつりて丹鳥たんちょうしゅうす。微蟲びちゅう猶お或いはかんに入る。四時の物を動かすこと深し。若し夫れ珪璋けいしょう 其の惠心けいしんぬきんで、英華えいか 其の清氣せいきひいづ、物色の相召あいまねくに、人 誰か安きをん。
 是を以て歲をおさめ春を發すれば、悅豫えつよの情び 滔滔とうとうたる孟夏もうかは 鬱陶うっとうの心る。天高く氣清くして 陰沈いんちんこころざし遠く、霰雪さんせつはて無くして、矜肅きょうしゅくおもい深し。歲に其のもの有り、物に其のかたち有り、情は物を以てうつり、は情を以てはっす。一葉いちようすらあるいは意を迎え、蟲聲ちゅうせいも心を引くにる有り。いわんや清風せいふう明月めいげつと夜をおなじくし、白日はくじつ春林しゅんりんあさともにするをや。

 対句など駆使した六朝美文の典型ですが、個々の語釈を超え、読んでみるとすごく論理的なのに驚かされます。こうした、季節の移り変わりの捉え方は、情緒的、感覚的な日本人のそれとどこか異なるものなのでしょうね。
 なお、引用は、繁體版文心雕龍中央研究院漢籍電子文獻)の白文から作成しました。(Wikisource 中文版にもあります。)

 身内の結婚式で、乾杯の音頭とりをしました。晴れがましい席での挨拶は苦手で、いつも適当にして、後で不評を買うのですが、そうしたドジは許されないと脅されて、今回は、予め原稿をしたためました。

 本日は、乾杯の音頭を仰せつかりましたが、その前に一言二言述べさていただくのをお許しください。実は、私こうした席の挨拶では、アドリブでは何を言い出すかわからないと家人から堅く戒められておりますので、今日は原稿を読ませて頂きます。

 さて、新婦の思い出と申しますと...(略)...その子ども達も、一人、二人と一人前になり、家庭も持ち、...(略)...、感慨を新たにしているところです。

 閑話休題はなしはさておき、実は、私、とある下町で町医者を生業なりわいとしています。長年、子どもからお年寄りまで診るこうした稼業をしておりますと、姪や子ども達の成長に合わせて、診ている患者さんも大きくなり、診察に来ていた子どもも最近結婚、その生まれた子どもを診る時など、その若い夫婦に、つい身内を連想し、お説教じみた診療になりがちです。

 また、更に年齢を経て、二人そろって仲良くデイケアに来られる高齢のご夫婦を見ているとこれはこれで燻し銀の光沢が感じられ、先日の結婚式に新婦のお父さんが、白楽天の「比翼の鳥、連理の枝」との詩句をいただきましたが、その思いをいっそう深くしている次第です。


 その白楽天に対抗するわけではありませんが、時代は少し下がりまして、宋の時代の詩人、蘇東坡が、中国の有名な湖、西湖を詠った詩を紹介したいと思います。


水光瀲灔れんえんとして晴れひとえに好く

山色空濛くうもうとして雨も亦奇なり

若し西湖を把つて西子に比せば

淡粧濃抹総て相いよろ

水の色はキラキラ光って、晴れればよい風景である

山の色は薄霞だが、雨の景色も格別である

薄化粧であれ、厚化粧であれ、越の美女、西施に比べてみても、西湖というのはどちらもすばらしい。

 夫婦でも同じ事だと存じます。本日の華燭の典、濃抹のうまつな、お二人も本当に素敵だし、いつまでも今日の日のことを忘れないとは思いますが、むしろ明日からは、淡粧たんしょうな普段着の生活が始まります。どうか、晴れの日はもちろんのこと、雨の日にも、お互い自由で闊達なご夫婦であり続け、明るいご家庭を築かれることを願って、わたくしの挨拶とさせて頂きます。乾杯!

 詩の題名は、超有名な「湖上に飲す、初は晴れ後は雨ふる」。宋詩選注(2)より。

 梅堯臣は、宋初の詩人、晩唐の艶やかだが脂っこい詩のモードを改め、「平淡」を旨とすべしと主張し、題材も日常生活に採ることが多かった意味では、彼の詩は宋詩の嚆矢とも言うべきでしょう。人の噂からくるクシャミなどとりあげているとあります。

東渓とうけい》  梅堯臣ばいぎょうしん

行きて東渓に到りて 水をるの時
坐して孤嶼こしょに臨みて 船を発すること遅し
野鳬やふ 岸に眠りて 閑意 有り
老樹 花を着けて 醜枝 無し
短短たる蒲茸ほじょう ひとしきことるに似たり
平平たる沙石させき きよらかなること するがごと
情はかずといえども とどまり得ず
薄暮 帰り来たれば 車馬 疲る

 この詩なども、春の川辺のちょっとのんびりした雰囲気がよく分かります。以前、淀川沿いをランニングで走っていた時、葦の葉が風に揺れていたのを思い出しました。(写真は、Wikipedia ガマの項目より

宋詩選注(1)より

銭鍾書著:宋詩選注(1)

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宋詩選注 1 Amazon.jp 銭鍾書著 東洋文庫(平凡社)

 漢詩でも、唐詩以外は、あまり触れる機会がありませんでしたが、陸游や蘇軾などの詩人を手がかりに読み始めたら興味が出てきました。えらい高価な買い物でしたが、思い切って全冊揃えてみました。編者の銭鍾書先生 (1910~1998) は、長編小説『囲城』(邦題「結婚狂詩曲」(岩波文庫)の作者として、大ブレークした文化大革命後の、中国の代表的知識人(文人といったほうがようでしょう)中国では、1950年代の出版で、その頃の政治情勢も反映し、社会的なテーマを扱った詩が多く選ばれていますが、日本の短歌などには見られない杜甫をはじめとする漢詩の伝統として、面白い。しかし、こうしたリアリズム詩も含めて、選ばれた選者の審美眼にかなったものになっているのにも感心しました。回を分けて、気に入った詩作を紹介してゆこうと思います。

モスラの飛んだ日...

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 小野俊太郎「モスラの精神史」 ゲット価:798円

 昨日の脱線 に引き続いて、その上もうひとつ脱線です。母が映画好きだったこともあり、子ども時代には、けっこうたくさんの映画に連れて行ってもらいました。でもたいていは、子ども向き映画というわけではなく、むしろ母の楽しみに付き合わされたようです。「風立ちぬ」という「文芸映画」のラストシーンでヒーローとヒロインが再会を果たすシーンでは、思わず大きな声での「よかったな!」という感想に周囲の客席がほくそ笑んだらしく、今でも母親の思い出話になっています。あの頃、見た映画は遠い記憶に霞んでいますが、ふと一場面が断片として思い浮かぶことがあります。「モスラ」という映画は、かなり年長になってからの1961年7月の封切りだそうですが、モスラが羽化して、空へ飛び立つシーンは微かに覚えています。それよりも、ザ・ピーナッツの「モスラの歌」が学校で流行り、級友たちと、「モスラや、モスラや」と歌ったことの方が、反復する記憶なので、より鮮明なのでしょう。本の紹介の詳細は避けますが、一本の映画作りのために様々な分野の人材が、各々のアイデアを持ち寄った、その作る側のモスラ誕生への思い入れがよく分かりました。同時に、観る側にとっても、飛び立つモスラへは、戦後の厳しい時代を生きてきた自らの人生を重ね合わせる何か――例えば、核兵器への恐怖や嫌悪感、YS-11 国産旅客機の就航、まだ見果てぬ「南方支配の夢」などでしょうか――があったればこそ、あんなにヒットしたのでしょう。何よりも興味深かった事は、「モスラ」の原作は、福永武彦、堀田善衛、それに、わが「木村蒹葭堂のサロン」の著者、中村真一郎とという「純文学」畑の三人の合作だったことです。遊び心も充分にあった彼らの意図が、映画では、そのままの形では実現しなかったけれど、それでも「主張や価値観の異なる担い手が対話をし、共同戦線を張ることさえでき」、「人的つながりに由来する豊穣な生産力である」、映画芸術がそんなパワーを持っていた時代があったのですね。「モスラ」の繭は、そうした彼らの思いを集めて編み上げた「夢の繭」だったのかもしれません。

映画「モスラ」予告編が、Youtubeにありますので、ご覧頂くのも一興になるでしょう。 →現在はなくなっている。

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