


(その 4)に引き続いて、ミュンヘンの町の話題を続けます。
鷗外から「既に三十八年の星霜を閲してゐる」1924(大正 13)年まで、斎藤茂吉が同じミュンヘンで精神医学の勉学に勤しみます。(Wikipedia)その茂吉のドイツ留学時の草々が「滞欧随筆」としてまとめられています。(斎藤茂吉選集第九巻)ミュンヘン滞在中に茂吉は、森鴎外「うたかたの記」の幕開けの舞台、カッフェエ・ミネルワの所在を確かめるべく、ミュンヘンの街を歩き回った事が、中の一編、「カフェ・ミネルワ」に書かれています。(残念ながら、青空文庫作業中、公開を期待します。)滞在中の 9月には、関東大震災の第一報が届いたり、11月には、ヒトラーのミュンヘン一揆に遭遇したり、心ならずも歴史の真只中に身を置いていた事になります。
ここでは、茂吉より遡ること、約十七年、同じくバイエルンの都に留学した、清国末期の政治家、康有為が、滞在中に作った詩が、吉川幸次郎「帰林鳥語」に引かれていましたので、孫引きしておきます。残念ながら当方ミュンヘンは、訪れる機会はないのですが、水の流れのきれいな都市のようですね。一度行ってみたいですね。
免恨京三詠の一首
白道の光華は免恨の京
樓臺は新しく靚かに人を照らして明らかなり
萬緑は園を壓して丘壑に倚り
六街は水を繞りて波聲を聽く
自注:歐と美の道路の潔は、徳聯邦の湃認國の免恨京を以て第一と爲す。公園は山に依り、溪流は郡を穿ち、樓閣の明靚なることも、亦た全歐に冠たる也。一九〇七年、光緒三十三年。
吉川幸次郎訓読
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