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古本でもこんな本が…の最近のブログ記事

 辻原登「花はさくら木」 ゲット価:700円

 芥川龍之介の「木村葭堂」の話題を少し脱線させておきます。木村蒹葭堂サロンができた頃は、田沼意次の台頭期と重なります。辻原登「花はさくら木」が、新聞連載中にたしか田沼意次と木村蒹葭堂の名前がよぎった気がして、今回読んでみました。近頃は、意次はむしろ開明的な政治家であるとの評価の方が有力になっているのでしょう、この小説でも、その線での田沼像です。その「重商主義」的な政策から、大阪の大商人鴻池と手を結ぼうとします。その権謀術数の中、敵味方相乱れて、公家皇室はじめ、朝鮮使節など多彩な人物が登場します。木村蒹葭堂も、その一人ですが、むしろ、上田秋成や蕪村、俳人の炭太祇などサロンの周辺にいた文人が、それなりに活躍します。木村蒹葭堂は、点景人物の一人といった感じで、ちょっと残念。木村蒹葭堂は、田沼失脚後もサロンとして賑わいましたが、松平定信の「寛政の改革」のあおりで、弾圧を受けますが、また別の形で、商家を再興されるあたり、大阪商人のしたたかさがバックボーンに持っていたようです。しかし、没後はその膨大なコレクションは、(芥川の冗談で言えば「クレオパトラの金髪も含めて」)幕府に没収されてはしまうのですが…

ブログ照る日曇る日に投稿しました。

 杜牧詩選
 増補 春夫詩鈔  ゲット価:100円
 改めて杜牧の一番の長編詩「杜秋娘詩」を読みました。以前あまり感じませんでしたが、少なくとも前半は彼の女性に対するそれなりの優しさが伝わってきます。「十年一たび覚む 揚州の夢、あまし得たり 青楼 薄倖の名」と、遊郭にプレーボーイの浮名を流した杜牧の事ゆえ、女性の身の上話に親身に耳を傾けたのかもしれませんね。杜秋娘は、初唐の時代の女性、妾に入った李錡という大官が反乱の罪で滅ぼされた結果、朝廷に召されて、時の帝憲宗に寵愛されました。その後、憲宗の孫、漳王の乳母になりましたが、漳王も政争の犠牲になり、廃せられ、故郷、揚子江領域の京口(潤州)に再び零落した姿で戻された、その晩年の彼女を杜牧は見て詩を作ったとされています(佐藤春夫「車塵集」の詩人略伝による、この略伝は奥野信太郎によるものかもしれない)が、杜秋娘は、漳王の乱以前に故郷に帰ってきており、史実とは少し違うようです。いずれにしても、世の移り変わり、栄耀栄華とその没落には、自らの身に照らして、杜牧には心動かされたのでしょう。

  杜秋娘詩(一部)
京江 水は清く滑らかに
女を生めば 白きこと脂の如し
其の間 杜秋なる者
朱粉の施を労せず
老濞 山に即きて鋳
後庭 千の双眉あり
秋は玉斝を持って酔い
与に唄う 金縷の衣
濞 既に白首にして叛し
秋も亦た 紅涙多し

四朝三十載
夢に似て復た非なるかと疑う
潼関 旧吏を識るも
吏髪 已に糸の如し
却び喚ぶ 呉江の渡し
舟人 那ぞ知るを得ん
帰り来たれば 四隣改まり
茂苑は 草菲菲たり
清血 灑げども尽きず
天を仰ぐも 誰に問うを知らんや
寒衣 一疋の素
夜 隣人の機を借る

晩風 梔子香る…

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 江馬細香詩集『湘夢遺稿』 (下)  ゲット価:1300円

ブログ照る日曇る日に、投稿しました。

 江馬細香詩集『湘夢遺稿』 (上)
 江馬細香詩集『湘夢遺稿』 (下)  計ゲット価:2600円

 前回、頼山陽が江馬細香に寄せた送別の詩が「詩のしん」になったと書いたが、夏目漱石の最後の漢詩、「無題」(大正五年十一月二十日)の尾聯、
眼耳雙忘身亦失 眼耳双つながら忘れ 身も亦失う
空中獨唱白頭吟 空中独り唱う白頭の吟
の解説に、吉川幸次郎が「漱石詩注」で、
十四字、二旬の後の逝去の予言となった。いわゆる詩のしんを成すものである。
と使っていたのを拝借したのである。(「無題」全編は、禿羊 漢詩のページなどにあり。)細香も、まさに同じ言葉を考えていたようで、「奉挽山陽先生(山陽先生を挽し奉る)」第二首目で、
相約歡期不隔年 相約あいやくす 歓期かんき 年を隔てずと
暫離何事忽凄然 暫く離るれば 何事ぞ たちま凄然せいぜん
寄詩曽恠逢難字 詩をせらるるに 曽て怪しむ 逢難の字
先生送別末句云 先生 送別の末句に云う
此去濃州非遠道 此より濃州にくは遠き道にあらざるも
老來更覺數逢難 老来 更に覚ゆ しばしば逢うことのかたきを
前讖今知永訣篇 前讖ぜんしん 今知る 永訣えいけつの篇と
素壁燒香拜遺墨 素壁すへき 香を焼きて 遺墨を拝む
生蒭置酒酹重泉 生蒭せいすう 酒を置きて 重泉じゅうせんそそ
嗚呼海内文宗缺 嗚呼ああ 海内かいだいには 文宗ぶんそうを欠く
不獨吾儕血涙漣 吾がともがら 血涙のながるるの独りならず
 と、「讖」(予言)としている。この詩を含め、山陽への挽歌を七律で三首作っているが、いずれも、死者を悼む真情に溢れている。が同時に、自分の感情をきちんと対象化し、詩として完成することにより、どこか、ふっきれたようにも受け取るのは穿ち過ぎだろうか?
【追加】
 ブログ照る日に、七夕前夜の細香の詩を載せた。


 門玲子:江馬細香 ゲット価:500円


江馬細香表紙
 先日、ブログ照る日曇る日に、江馬細香の「爺は歳八十、眼に霧なし…」の一句を含む漢詩を紹介したが、細香という女流詩人の名をはじめて知ったのが、南條範夫:細香日記であった。その細香発掘のきっかけになったのが、門玲子氏の献身的な研究と一連の著書であろう。偶然古書店で手に入れたおかげで、さらに深く細香ワールドの魅力を知ることができた。
 師でありつつも、ついに夫となりえなかった頼山陽の詩の添削を受けながら、生涯独身という対価を代償にして、詩人として、画家として、美濃大垣の地で、75年の人生を送った細香。時代は、幕末にむかう頃で、周囲には、その歴史の奔流にのまれてしまった知人、友人がいないわけではない。細香自身は、決して派手な人生であったわけではなく、清逸なる文人としての一生だったが、それでも、さまざまな別離を経験する。とりわけ、頼山陽とは「二十年中七度別」れたが、とうとう八回目の出会いはなかった。細香 44才の天保元年(1830年)閏三月、京から帰郷する細香を近江の地まで見送った山陽は、次の詩を彼女へのはなむけとしたが、これが師弟の今生での最後の別れになるとは、当人は知る由もなかったろう。



岩波書店、1958年 ゲット価:100円

河上肇は、獄中で、白楽天や蘇東坡など中国の詩人に親しんだらしく、とりわけ陸放翁に心酔し、後に詩の注釈書——放翁鑑賞(その六その七)を書いたことはご存知のとおりです。また、王維(王右丞)の詩にも心引かれ、妻宛の書簡(1934年11月20日付け)に

 最近に差し入れてもらった王右丞集は非常に結構です。「悠然たる遠山の暮、独り白雲に向うて帰る」と云つたような佳句に出会つて、飽くことを知らず口吟しながら、寝に就くと、やがて詩を夢に見ます。不愉快な夢を見るのと違つて実に気持が善いです。

とあります。詩の全体を示すと、

 輞川もうせんに歸りての作
谷口 疎鐘そしょう動き
漁樵ぎょしょう ようやまれならんと欲す
悠然ゆうぜんたり 遠山の暮
獨り白雲に向って歸る
ひしの實は弱くしてさだまり難く
楊花ようかは輕くして飛びやす
東皐とうこう 春草の色
惆悵ちゅうちょうして柴扉さいひおお

ですが、王維らしく、対句になるべき所に「佳句」が決まっている律詩です。人の世の煩いに例えた、菱の実や楊花という足元に見る春の景色も、人事を超越したとも言うべき、遠い山に懸かる白雲という大きな舞台にあればこそ、何か物悲しく惆悵とした感情を抱く、獄中での河上肇はそんな気分をこの詩から受け止めたのでしょうか。この他の詩にも、王維の詩には、「決め所」があるように思います。

落花寂寂として山に啼く鳥
揚柳青青として水を渡る人

「寒食汜上の作」

漠獏ばくばくたる水田 白鷺はくろ
陰陰いんいんたる夏木 黄鸝こうりさえずる

「積雨輞川荘の作」

行きて水の窮まる処に到り
坐して雲の起る時を看る

「終南の別業」

後の二例は、同時代の詩人から「剽窃」したとの非難があったそうですが、そんな評判を吹き消すくらい、不思議と律詩全体にうまくはめ込まれています。そんな「佳句」に出会って、河上肇は、獄中でのつかの間の安らぎにせよ、またよい夢をみたことでしょう。

ブログ照る日曇る日に投稿しました。

先日の投稿の、補足である。

  1. 河上肇は、どうも獄中の詩人という印象が強いようだ。しかし、獄中の漢詩は、1933年2月18日付けの「無題」だけで、今からちょうど70年前の今日、1937年6月15日に出獄した後の作である。もちろん、獄中生活を回顧する詩作は多々あるが、苦しい経験というのは、一定の年月を経ないと、詩としては「熟成」しないのであろう。
  2. ihaateshokan.jpg同じ十一巻には、河上肇の書簡集も収録されている。以前紹介した沖縄の歴史学者伊波普猷宛の書簡も 3通みられる。一海知義先生は、「漢語の知識」では、(著作集発刊後の)1980年に伊波宛の書簡やはがき 18通公開されたとあるので、それ以前にも若干は「公開」されていたのだろう。1944年9月12日付けの葉書で、「早醒」の題での漢詩を伊波宛に送っているのは、以前の記述だが、別の書簡でも、「自画像」という五言古詩を読み下して送っている。Laihama さんのサイトから、その部分の「白文」と書簡にある「訓読文」(ふりがななど若干の変更は行った。)を、続きに載せておく。 また、画像は「漢語の知識」にあった、伊波普猷宛の書簡である。
  3. 大阪商大(現大阪市立大学)の福井孝治宛の1944年8月19日付け書簡には、ルクリュの著書を読んだとある。訳者名を名前を挙げていないが、
    ルクリュは大変有益に且つ興味深く読了しました。私は訳者を知つて居りますが−−幸德、木下、堺の諸氏みな故人となつてゐる今日、同氏ひとり健在で、こんな本を訳して居られるのは結構なことと存じます。−−如何にも同氏の訳出されさうな本だと思ひました。
    とあり、先日触れた石川三四郎だと分かる。Edgar Snow "Red Star over China" を「奇書」とよび、熟読したこと並び、「蟄居」中に関わらず、河上の志のありようを示したエピソードと言える。


筑摩書房、1965年、絶版 ゲット価:500円

たしか、一海知義先生の「河上肇詩注」を持っていたように思うのだが、手元に見当たらない。偶然手に入れた、著作集第十一巻が詩歌・書簡集なので、短歌、自由律詩、漢詩など少しづつ読んでいる。河上肇が漢詩を作り始めたのは、治安維持法での捕囚くらしから解放された翌年の1938年以降、残り7年間の生涯で一海先生は百数十篇になると言われる。1942年になると、その詩境の上達、著しく、6月14日には、吉川幸次郎が最高傑作の一つとしてあげた(著作集第十一巻月報「河上肇先生の詩歌」より)、「夏涼」が作られる。今からちょうど、65年前である。2月26日には、「洛北法然院十韻」、7月7日には、「自画像」という五言古詩の傑作が生まれたのもその年である。

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