Top | About | Metablog | Wiki

こんな本、読みましたの最近のブログ記事

ブログ照る日曇る日に投稿しました。

 芥川龍之介全集 7
 しばらくは、昨日の「河童忌」を受け、芥川龍之介に因む話題を続けます。以前、大阪に関係する文学者を扱った大阪民主新報の連載を何回か紹介しました。芥川で言えば、1918年(大正 7年)に大阪毎日新聞社の社友になってから、大阪と縁ができるようになり、そのせいか大阪が舞台の作品が目立つようになります。「枯野抄」(青空文庫)もそうですが、連載には、他に「仙人」や「」が挙げられていました。「僻見」(青空文庫作業中)中の一篇、「木村葭堂」もその一つです。(「僻見」で取り上げられている人物は、木村葭堂の他に、斎藤茂吉、岩見重太郎、大久保湖州というなんともユニークな人選です。茂吉以外は、ほぼ初対面の人物です。強いて言えば、加藤周一さんの「三題噺」に趣向が似てなくはないと思いました。)京都の美術館の一室で、芥川は、木村葭堂の画に魅せられるところから話は始まります。体調の故か、その日は富岡鉄斎や浦上玉堂には、見向きもせずに、「目の前へ奇蹟よりも卒然と現れた」「小さい紙本しほん山水さんすい」に引き付けられたとありますから、感動の程度が分かります。

以下、木村葭堂の紹介は、主に芥川その人をして語ってもらいます。実にウィットに富み、「人懐っこい」文章ですので…。なお、部分的には、この一文に想を得て、主としては、「頼山陽とその時代」「蠣崎波響の生涯」に連なる江戸文人の世界として、中村真一郎さんは「木村蒹葭堂のサロン」を絶筆として遺しました。木村葭堂の画や肖像も含めて、その詳細な書評が、「松岡正剛の千夜千冊」にあります。後日、松岡さんとは違った切り口で紹介する機会があるかも知れません。また、Wikipediaに掲載する「山水図」が芥川が感動した画でしょう。同じく、続きに掲げておきます。

 杜牧詩選
 増補 春夫詩鈔  ゲット価:100円
 改めて杜牧の一番の長編詩「杜秋娘詩」を読みました。以前あまり感じませんでしたが、少なくとも前半は彼の女性に対するそれなりの優しさが伝わってきます。「十年一たび覚む 揚州の夢、あまし得たり 青楼 薄倖の名」と、遊郭にプレーボーイの浮名を流した杜牧の事ゆえ、女性の身の上話に親身に耳を傾けたのかもしれませんね。杜秋娘は、初唐の時代の女性、妾に入った李錡という大官が反乱の罪で滅ぼされた結果、朝廷に召されて、時の帝憲宗に寵愛されました。その後、憲宗の孫、漳王の乳母になりましたが、漳王も政争の犠牲になり、廃せられ、故郷、揚子江領域の京口(潤州)に再び零落した姿で戻された、その晩年の彼女を杜牧は見て詩を作ったとされています(佐藤春夫「車塵集」の詩人略伝による、この略伝は奥野信太郎によるものかもしれない)が、杜秋娘は、漳王の乱以前に故郷に帰ってきており、史実とは少し違うようです。いずれにしても、世の移り変わり、栄耀栄華とその没落には、自らの身に照らして、杜牧には心動かされたのでしょう。

  杜秋娘詩(一部)
京江 水は清く滑らかに
女を生めば 白きこと脂の如し
其の間 杜秋なる者
朱粉の施を労せず
老濞 山に即きて鋳
後庭 千の双眉あり
秋は玉斝を持って酔い
与に唄う 金縷の衣
濞 既に白首にして叛し
秋も亦た 紅涙多し

四朝三十載
夢に似て復た非なるかと疑う
潼関 旧吏を識るも
吏髪 已に糸の如し
却び喚ぶ 呉江の渡し
舟人 那ぞ知るを得ん
帰り来たれば 四隣改まり
茂苑は 草菲菲たり
清血 灑げども尽きず
天を仰ぐも 誰に問うを知らんや
寒衣 一疋の素
夜 隣人の機を借る

ブログ照る日曇る日に投稿しました。

ブログ照る日曇る日に投稿しました。

トルストイ「復活」(下)

|

amazon-logo.gif

中村白葉訳
やや退屈な筋運びだが、ツルゲーネフの「処女地」とも共通して、時代の雰囲気も出て、ナロードニキなどの政治犯が出てくる。流刑人の生活については、ドストエフスキー「死の家の記録」を参考にしたそうだ。なるほど...



Blog 照る日曇る日に投稿しました。

 多田富雄氏は、ご自身でも新作能の脚本を手がけられるなど文学的センスがあるようです。そういえば、親類縁者に詩人が二人いることも所収のエッセイで触れられていました。否定はされていますが、こうしたセンスは DNA レベルで決定されるとふと感じてしまいます。その一人は、大叔父の多田不二(1893〜1968)、NHK の放送畑を歩んできたらしく、「終戦の玉音放送」のレコードを持って、多田氏の田舎宅に持ってきたそうです。もう一人は、ペンネームが志野冬彦という従兄弟。特攻隊に志願したが、病を得て、終戦の翌年に肺結核で亡くなったと書いています。

テクノラティタグ→|



 有島武郎星座」の主人公、清逸は、農学が専攻ながら、江戸時代の儒者、新井白石(1657〜1725)の「折たく柴の記」についての論文を書こうとしています。


...清逸は白石は徳川時代における傑出けっしゅつした哲学者であり、また人間であると思った。儒学じゅがく最盛期さいせいき荻生徂徠おぎゅうそらいみだりに外来の思想を生嚼なまかじりして、それを自己という人間にまで還元することなく、思いあがった態度で吹聴ふいちょうしているのに比べると、白石の思想は一見平凡にも単調にも思えるけれども、自分の面目めんもくと生活とから生れでていないものは一つもなく、しかもその範囲はんいにおいては、すべての人がかりそめに考えるような平凡な思想家ではけっしてなかったということを証明したかったのだ。徂徠が野にいたのも、白石が官儒として立ったのも、たんなる表面観察では誤りにおちいりやすいことを論定したかった。この事業は清逸にとってはたんなる遊戯ではなかった。彼はこの論文において彼自身を主張しようとするのだ。...

 「大正デモクラシー」の時代になってはじめて、こんな白石像が出てきたのでしょう。後の羽仁五郎や加藤周一につながっていく白石評価だと思います。

 白石の活躍したのは、六代将軍家宣、七代将軍家継の時代、八代将軍吉宗の世には、側用人間部詮房とともに、政治の表舞台から退ぞけられ、不遇の晩年を送ったとされますが、その時期に、この「折たく柴の記」はじめ多くの著作を遺しています。考えようによっては、後世にとっても幸運なことでしたし、白石自身は、またとない、心置きなく書くことに没頭できる、そんな境遇を喜んでいたのかもしれません。亡くなったのは、 281年前のちょうど今日、1725年6月29日(旧暦では、享保10年5月19日)です。

テクノラティタグ→|

 この本は、1999年に行われた河上肇生誕 120周年行事での講演や対談をまとめたものである。一海先生の中国の詩人陸放翁に親しんだ事と生涯も持ち続けた「河上精神」との関係に触れた序論からはじまり、加藤先生の「手作りの思想」だったが故に、確固たる価する思想となったこと、井上先生の河上夫人の秀さんや娘の芳子さんと、「新生」のモデルとされる島崎藤村の姪ご、こま子さんとの接点など、青空文庫的話題に事欠かない内容である。(こま子さんと林芙美子の関係は、「太鼓たたいて笛ふいて」のテーマの一つとなっている。)
 と、話を、河上肇の青空作品、「放翁鑑賞」か、作業中の「貧乏物語」に持っていきたいところだが、彼の漢詩を紹介した前回のいささか重大な補足である。作品紹介は、後日に期したい。
 戦時中の、1943年から1945年にかけて、沖縄の民俗学者伊波普猷宛てに 18通の葉書や手紙を送っており、その漢詩は、その一通の末尾に書かれたものだそうだ。伊波普猷略年譜によると、助教授時代の河上肇が来沖して以来、親交があった。終戦後、一年ないし二年で、二人は相次いで世を去るが、戦争中の沖縄の惨状を聞いて、河上肇の心中はいかばかりのものであったろう。おりしも、ある平和メーリングリストから、辺野古海上基地建設現場での屈辱的な事件を知らせるメールが届いた。こうした野蛮な「占領政策」が戦後六十年たっても、今なお続いているとしたら、お二人が在世なら安閑としていられないだろう。伊波普猷の「沖縄の心根」や「河上精神」を受け継いで、人間じんかん(この世)の闇にしっかりと立ち向かおうではないか!と思った次第である。

2008年6月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
  • 購読する
Powered by Movable Type 4.11