ブログ照る日曇る日に投稿しました。
日本人の漢詩の最近のブログ記事
江馬細香詩集『湘夢遺稿』 (上)
江馬細香詩集『湘夢遺稿』 (下) 計ゲット価:2600円前回、頼山陽が江馬細香に寄せた送別の詩が「詩の
眼耳雙忘身亦失 眼耳双つながら忘れ 身も亦失うの解説に、吉川幸次郎が「漱石詩注」で、
空中獨唱白頭吟 空中独り唱う白頭の吟
十四字、二旬の後の逝去の予言となった。いわゆる詩のと使っていたのを拝借したのである。(「無題」全編は、禿羊 漢詩のページなどにあり。)細香も、まさに同じ言葉を考えていたようで、「奉挽山陽先生(山陽先生を挽し奉る)」第二首目で、讖 を成すものである。
相約歡期不隔年と、「讖」(予言)としている。この詩を含め、山陽への挽歌を七律で三首作っているが、いずれも、死者を悼む真情に溢れている。が同時に、自分の感情をきちんと対象化し、詩として完成することにより、どこか、ふっきれたようにも受け取るのは穿ち過ぎだろうか?相約 す歓期 年を隔てずと
暫離何事忽凄然 暫く離るれば 何事ぞ忽 ち凄然
寄詩曽恠逢難字 詩を寄 せらるるに 曽て怪しむ 逢難の字
先生送別末句云 先生 送別の末句に云う前讖今知永訣篇
此去濃州非遠道 此より濃州に去 くは遠き道にあらざるも
老來更覺數逢難 老来 更に覚ゆ しばしば逢うことの難 きを
前讖 今知る永訣 の篇と
素壁燒香拜遺墨素壁 香を焼きて 遺墨を拝む
生蒭置酒酹重泉生蒭 酒を置きて重泉 に酹 ぐ
嗚呼海内文宗缺嗚呼 海内 には文宗 を欠く
不獨吾儕血涙漣 吾が儕 血涙の漣 るるの独りならず
【追加】
ブログ照る日に、七夕前夜の細香の詩を載せた。
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先日、ブログ照る日曇る日に、江馬細香の「爺は歳八十、眼に霧なし…」の一句を含む漢詩を紹介したが、細香という女流詩人の名をはじめて知ったのが、南條範夫:細香日記であった。その細香発掘のきっかけになったのが、門玲子氏の献身的な研究と一連の著書であろう。偶然古書店で手に入れたおかげで、さらに深く細香ワールドの魅力を知ることができた。
師でありつつも、ついに夫となりえなかった頼山陽の詩の添削を受けながら、生涯独身という対価を代償にして、詩人として、画家として、美濃大垣の地で、75年の人生を送った細香。時代は、幕末にむかう頃で、周囲には、その歴史の奔流にのまれてしまった知人、友人がいないわけではない。細香自身は、決して派手な人生であったわけではなく、清逸なる文人としての一生だったが、それでも、さまざまな別離を経験する。とりわけ、頼山陽とは「二十年中七度別」れたが、とうとう八回目の出会いはなかった。細香 44才の天保元年(1830年)閏三月、京から帰郷する細香を近江の地まで見送った山陽は、次の詩を彼女への
岩波書店、1958年 ゲット価:100円
河上肇は、獄中で、白楽天や蘇東坡など中国の詩人に親しんだらしく、とりわけ陸放翁に心酔し、後に詩の注釈書——放翁鑑賞(その六、その七)を書いたことはご存知のとおりです。また、王維(王右丞)の詩にも心引かれ、妻宛の書簡(1934年11月20日付け)に
最近に差し入れてもらった王右丞集は非常に結構です。「悠然たる遠山の暮、独り白雲に向うて帰る」と云つたような佳句に出会つて、飽くことを知らず口吟しながら、寝に就くと、やがて詩を夢に見ます。不愉快な夢を見るのと違つて実に気持が善いです。
とあります。詩の全体を示すと、
輞川 に歸りての作
谷口疎鐘 動き
漁樵 稍 く稀 ならんと欲す
悠然 たり 遠山の暮
獨り白雲に向って歸る
菱 の實は弱くして定 まり難く
楊花 は輕くして飛び易 し
東皐 春草の色
惆悵 して柴扉 を掩 う
ですが、王維らしく、対句になるべき所に「佳句」が決まっている律詩です。人の世の煩いに例えた、菱の実や楊花という足元に見る春の景色も、人事を超越したとも言うべき、遠い山に懸かる白雲という大きな舞台にあればこそ、何か物悲しく惆悵とした感情を抱く、獄中での河上肇はそんな気分をこの詩から受け止めたのでしょうか。この他の詩にも、王維の詩には、「決め所」があるように思います。
落花寂寂として山に啼く鳥
揚柳青青として水を渡る人
「寒食汜上の作」
漠獏 たる水田白鷺 飛 び
陰陰 たる夏木 黄鸝 囀 ずる
「積雨輞川荘の作」
行きて水の窮まる処に到り
坐して雲の起る時を看る
「終南の別業」
後の二例は、同時代の詩人から「剽窃」したとの非難があったそうですが、そんな評判を吹き消すくらい、不思議と律詩全体にうまくはめ込まれています。そんな「佳句」に出会って、河上肇は、獄中でのつかの間の安らぎにせよ、またよい夢をみたことでしょう。
先日の投稿の、補足である。
- 河上肇は、どうも獄中の詩人という印象が強いようだ。しかし、獄中の漢詩は、1933年2月18日付けの「無題」だけで、今からちょうど70年前の今日、1937年6月15日に出獄した後の作である。もちろん、獄中生活を回顧する詩作は多々あるが、苦しい経験というのは、一定の年月を経ないと、詩としては「熟成」しないのであろう。
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同じ十一巻には、河上肇の書簡集も収録されている。以前紹介した沖縄の歴史学者伊波普猷宛の書簡も 3通みられる。一海知義先生は、「漢語の知識」では、(著作集発刊後の)1980年に伊波宛の書簡やはがき 18通公開されたとあるので、それ以前にも若干は「公開」されていたのだろう。1944年9月12日付けの葉書で、「早醒」の題での漢詩を伊波宛に送っているのは、以前の記述だが、別の書簡でも、「自画像」という五言古詩を読み下して送っている。Laihama さんのサイトから、その部分の「白文」と書簡にある「訓読文」(ふりがななど若干の変更は行った。)を、続きに載せておく。 また、画像は「漢語の知識」にあった、伊波普猷宛の書簡である。 -
大阪商大(現大阪市立大学)の福井孝治宛の1944年8月19日付け書簡には、ルクリュの著書を読んだとある。訳者名を名前を挙げていないが、
ルクリュは大変有益に且つ興味深く読了しました。私は訳者を知つて居りますが−−幸德、木下、堺の諸氏みな故人となつてゐる今日、同氏ひとり健在で、こんな本を訳して居られるのは結構なことと存じます。−−如何にも同氏の訳出されさうな本だと思ひました。
とあり、先日触れた石川三四郎だと分かる。Edgar Snow "Red Star over China" を「奇書」とよび、熟読したこと並び、「蟄居」中に関わらず、河上の志のありようを示したエピソードと言える。
筑摩書房、1965年、絶版 ゲット価:500円
たしか、一海知義先生の「河上肇詩注」を持っていたように思うのだが、手元に見当たらない。偶然手に入れた、著作集第十一巻が詩歌・書簡集なので、短歌、自由律詩、漢詩など少しづつ読んでいる。河上肇が漢詩を作り始めたのは、治安維持法での捕囚くらしから解放された翌年の1938年以降、残り7年間の生涯で一海先生は百数十篇になると言われる。1942年になると、その詩境の上達、著しく、6月14日には、吉川幸次郎が最高傑作の一つとしてあげた(著作集第十一巻月報「河上肇先生の詩歌」より)、「夏涼」が作られる。今からちょうど、65年前である。2月26日には、「洛北法然院十韻」、7月7日には、「自画像」という五言古詩の傑作が生まれたのもその年である。
大阪民主新報に連載中の「大阪文壇事件簿」は、先週で芥川龍之介が終わり、今週(6月10日付け)から、与謝野鉄幹(1873 - 1935)の話題である。(芥川龍之介のことは、「枯野抄」をとりあげて、先日このブログでも紹介したが、大阪を舞台にした他の作品も話題にする予定である。)鉄幹の父、礼厳は、浄土真宗西本願寺派の僧侶だったが、娑婆気も相当あり、お寺から追い出され、鉄幹もその影響で、いろいろなお寺に養子にだされる羽目になったという。やっと、落ち着いた先が大阪住吉区遠里小野の安養寺、鉄幹十二歳の時、寺の住職がなかなかの教養人で、和歌や漢詩を嗜んだとある。その影響で、大和川を越して堺新在家町の漢学塾に通ったいた。そのころ、8歳だった鳳晶子の実家と目と鼻の先なので、二人のすれ違いくらいはあったかもしれない。
鉄幹は、漢詩にも興味を覚え、「鉄雷道人」というペンネームで漢詩の雑誌に投稿した。そのうちの十五歳の時の作品、「村居雑詠」という五言律詩が、記事では、原文で紹介されていたので、読み下しておく。
鳥の衣、日に墨を脩め
鶯は老ひて、寂として声なし
花は落ち、春は地を粘し
鵑は啼き、雨は城に満つ
詩書は、常に与うるに遺し
軒冕は、豈に栄の為めならんや
到る所、風光好し
夏来たらば、句成り易し
これでも「前半は佳作だが後半はもっと『刻琢』せよ」という評だそうだ。当方など、夏が来ようと、来るまいと、いくら捻っても「句成り難し」であるが…
吾輩は、ドクトルOガイである。以前、諸君との約束に、「思い出す事など」」から夏目漱石君の漢詩を紹介するとあったが、まだその責を果たせないでいる。おいおい、投稿していく算段であるが、しばらくは、吾輩の現みの世の姿、森鴎外君の漢詩を披露していきたいと考えている。
鴎外君は、明治17年(1884年)から明治21年(1888年)まで、衛生学研究のためドイツ留学したのは、承知しておられるだろうな。しかし、最後の年、1888年には、鉄血宰相ビスマルクとも面会して、名探偵として事件を解決したことまではご存知あるまい。ただし、それは、推理小説での上のことじゃが...(海渡 英祐「伯林‐1888年」
)
ベルリン到着後、何事も几帳面な性分なので、鴎外君は丹念に日記をつけた。名づけてずばり「独逸日記」。また、留学中に体験したこもごもを「舞姫などの作品として書き上げたから、帰らぬ青春という創作上の原点でもあったのだろう。「独逸日記」の中に、ベルリンのご婦人の生態を写し出した漢詩、「詠伯林婦人七絶句」という連作がある。こういう方面は、ほんとにまめであるのお。そのなかから...
この本は、1999年に行われた河上肇生誕 120周年行事での講演や対談をまとめたものである。一海先生の中国の詩人陸放翁に親しんだ事と生涯も持ち続けた「河上精神」との関係に触れた序論からはじまり、加藤先生の「手作りの思想」だったが故に、確固たる価する思想となったこと、井上先生の河上夫人の秀さんや娘の芳子さんと、「新生」のモデルとされる島崎藤村の姪ご、こま子さんとの接点など、青空文庫的話題に事欠かない内容である。(こま子さんと林芙美子の関係は、「太鼓たたいて笛ふいて」のテーマの一つとなっている。)
と、話を、河上肇の青空作品、「放翁鑑賞」か、作業中の「貧乏物語」に持っていきたいところだが、彼の漢詩を紹介した前回のいささか重大な補足である。作品紹介は、後日に期したい。
戦時中の、1943年から1945年にかけて、沖縄の民俗学者伊波普猷宛てに 18通の葉書や手紙を送っており、その漢詩は、その一通の末尾に書かれたものだそうだ。伊波普猷略年譜によると、助教授時代の河上肇が来沖して以来、親交があった。終戦後、一年ないし二年で、二人は相次いで世を去るが、戦争中の沖縄の惨状を聞いて、河上肇の心中はいかばかりのものであったろう。おりしも、ある平和メーリングリストから、辺野古海上基地建設現場での屈辱的な事件を知らせるメールが届いた。こうした野蛮な「占領政策」が戦後六十年たっても、今なお続いているとしたら、お二人が在世なら安閑としていられないだろう。伊波普猷の「沖縄の心根」や「河上精神」を受け継いで、
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